私は33歳の時に潰瘍性大腸炎という病気を患い、それから三年間、下血はひどいときで一日15回ほどありました。腸壁が破れ、血が吹き出るのです。外出してもすぐにトイレに行きたくなり、下血と便が混ざって出てきます。腸壁の潰瘍ですから常にお腹に疝痛があり、とても苦しいものでした。
二年間はいろいろな治療を受けました。ステロイドもとりましたが、一時しのぎにしかなりませんでした。すごいプレッシャー下にいると、あっという間に潰瘍が広がり、血が吹き出るのです。そもそも私が難病の潰瘍性大腸炎を患ったのは、仕事上、徹夜も多く、体のことをかえりみずに働いてしまったためで、そんななかで潰瘍性大腸炎を発症しました。
私が、ホメオパシーと出会ったのは、潰瘍性大腸炎を患い2年目の年でした。その頃の私は、どうしても治らない病気のために、心はすっかり暗くなり、陰鬱な日々を送っていて、人生に対して大変ネガティブになっていました。なぜ私だけが病気になるのか、なぜ私だけが苦しむのか、人生は不公平であり、私の人生は何と苦難ばかりであったかと哀れんでいるときでした。今思えば、こんな考えでは治るはずもなく、病気はドンドンひどくなる一方でした。医師からは、トランキライザー、抗不安定剤、下痢止め、鉄剤、抗生物質などいろいろと処方してもらいましたが、最終的に何も効かなくなりました。
いよいよ、潰瘍の腸を切って、人工肛門をつけるしかないというときに、夢で「同種のホメオパシー治療がいい」と教えられました。翌朝起きたときには、ホメオパシーという言葉はすっかり忘れていて、同種しか覚えていません。この同種の言葉を手がかりに、イギリス人の同僚に電話で聞いてみました。そしたらその同僚から「ああ、それは、きっとホメオパシーのことよ」と教えられ、「ああ、そうだった、ホメオパシーだ!」と思い出しました。私は夢のお告げなんて、信じるような人間ではありませんでしたが、このままの人生で終わりたくないという藁をもすがる気持ちから、何はともあれ、ホメオパシーにすがりついたのです。
ホメオパスのところへ行き、私に与えられた一時間、ありとあらゆることを聞かれました。一見、病気には関係ないようなことや恥ずかしくて言えないことも聞かれ、自分が丸裸にされたようでした。特に私の心の持ち方や、性癖、性格に対して突っ込んで聞いてくるので、これは、心理カウンセラーかと思ったくらいです。しかし月、太陽、天気の影響、食べ物の好み、恐怖感や夢、怒り、悲しみ、憎しみをどのように解決しているのかなどの質問には面食らいました。その上、出生体重や母乳を飲んだか、私の家族や先祖の人々の病歴なども聞かれ、答えることができませんでした。自分自身への問いかけの少なさや母親などから自分や家族のことを何も聞いていないことを痛感しました。
一体いつになったら、病気のことを聞いてくれるのかと待っていましたが、結局潰瘍性大腸炎の病状を話すことができたのは、たったの五分ほどでした。私が是非とも喋りたかったことは、病状のことだったのに、ホメオパスは、それはあまり重要なことではないという感じでした。約一時間の問診が終わり、ホメオパスから手渡されたものは、四粒の砂糖玉でした。しかも色も形も全く同じ砂糖の玉なのに、別々の名前がついていたのです。この先生(ホメオパス)は、白衣も着ておらず、聴診器を使うわけでなく、病気について聞くわけでもなく、渡されたものが砂糖玉四つですから「あーあ、また騙された。あの夢は嘘だったんだ」とがっかりしながら帰りました。
家に帰ってから、せっかくお金を払ったのだから四粒の砂糖玉を捨てるのももったいないと思い、期待しないまま指示通り、一日一粒、四日間のみました。そしたら五日目の朝に、どういうわけか、ベッドから立ち上がれません。腰が抜けたような感じで、二つ折れになったままなのです。節々が痛く、微熱もあります。トイレに這うようにして行き、またベッドに戻り、節々の痛さに耐えていました。あまりに痛いので、ホメオパスに電話し「助けて下さい。起き上がれなくて、体の節々が痛いのです」と言うと、彼は無下にも「そうですか、それは良かった。そのまま気を楽にして寝ていて下さい。ではお大事に」と言った切り電話を切られてしまいました。「何が良かっただ。ふざけるな!やっぱり偽のヤブ医者だ」と確信しました。行かなければ良かった、と後悔、でも既に遅しです。痛みはドンドンひどくなりました。しかし不思議なことに、この痛みがあるときは、下痢が起こりません。そして、この痛みは、26歳のときにかかったインフルエンザのときの痛みと全く同じものであることが自然と思い出されました。そう言えば、26才の頃、体調が悪かったのですが、仕事を休むことができなくて、抗生物質を打ちながら、やり抜いたことを思い出していました。そのときの症状が戻ってきたのです。翌日、痛みは少し減ってきたもののまだ腰が曲がったままです。熱と汗がたくさん出ました。三日目、ほとんど痛みは無く、体が軽くなっていました。血便が、いつものピンクの粘液便でなく、ドス黒いものに変わっていました。下痢は続いていましたが、何にも食べられなかったので、ただひたすらドス黒い血便のみが出続けていました。
それから一週間ほど経過した頃、腹が立って、腹が立って、何かにつけ、何かをぶち壊したいという思いがわき上がってきました。私が以前に抱いていた憤り、それらがドーッと押し寄せてきたのです。男社会であること、実力があってもコネがないとできないこと、貧乏人に対する社会の目、個性的な人に対する村八分的な態度、などなど、こういうことに対して、私はずっと戦ってきたのです。これは、相手は社会ですから、勝てるはずもありません。結局負け犬の遠吠えです。これらに負けるものか、と頑張ってきた私は、お金もできたし、ある程度の名声も得たのですが、健康な体はもうありませんでした。そう思うと、また腹が立っておさまりません。私は、母に認められなかったがために、上司に誉められると嬉しくて、体のことも考えずに頑張り続けてきたインナーチャイルドがいたのです。そして、今日まで、身を切る思いで働いてきたのに、それは他人の評価で生きてきたところがあり、その価値観が根底から崩れ去ったのです。
私が心にとらわれていて、体の変化に気づかなかったのですが、感情の吐き出しとともに、体はドンドン癒されていたのです。怒りが鎮まる頃に、何とも言えない悲しみ、生きることへの絶望的な悲しみが、私を襲いました。生きること、または生かされることへの悲しみと言っていいのでしょうか?肉体をもった人としてつらい人生を生きることへの苦しみです。もう大声で泣くのではなく、ひたすらさめざめと、シクシクと泣くのです。私の子どもの頃のトラウマで、置き去りにされているインナーチャイルドが泣いているようでした。泣いて、わめいてを一週間ほど続けた頃に、ふと血便が出ていないことに気が付きました。まだ柔らかかったものの、普通の便に戻っていました。
毎日、毎日、昔を思い、泣きはらしていたある日、外を見ると庭にはクロッカスやスイレン、ビクトリアプラムの花々がたくさん咲いていました。これらの花々に引き寄せられるように、まだ肌寒い春先に庭に出ていきました。自由にどこにでも歩いていける足もなく、つらくても弱音を吐ける口がない植物たちですが、一つの陰りもない美しい花を満開に咲かせ、自分の生命を生き抜いていました。それなのに足もあり、口もあり、植物より自由な私は、人生はつらい、お金がない、人が私を尊敬しない、などと不平や文句ばかりを言っていたことをつくづく思い知らされたのです。そして全ては、心の持ち方であり、心とは、苦難をつらいと思えばつらく、有り難いと思えば有り難いものに変化するのだということに気づいたのです。こうして私のこれまでの人生、インナーチャイルドに翻弄された人生に終止符が打たれました。物質的なものが、本当の意味で自分を潤わせ、平安をもたらすものではないということが、この病気で気づかせてもらったのです。
潰瘍性大腸炎は、一ヶ月足らずで完治しました。ホメオパスとの1ヶ月に1回のアポイントで、全てを話しました。彼は、全てを知っていたかのように、終始ニコニコ笑っているばかりいました。 私は、もうこの頃には性格が一変しており、あんなにキチキチしていた私が、だらしなく、あまり掃除もせず、自分の好きなことだけするようになってしまって、家の中がまるで泥棒が入ったようになっていました。完璧症だった私は、今までの人生ではじめての手抜きがはじまり、そうして何をしていたかというと庭の手入ればかりしていました。この庭いじりをすることで、私の心が楽になることを知ったからです。子どものころに帰ったかのように、朗らかになりました。そして、身も心も、すっかり楽になったころに、ホメオパシーを勉強したいという思いが沸き上がり、もう止めることができませんでした。
ホメオパシーの学校に入学手続きも済ませ、心も躍らんばかりに始めたホメオパシーの勉強でしたが、段々とつらいものになっていきました。それは、教科書が100年以上も前に書かれたものであり、しかもギリシャ語、ラテン語、万葉英語があり、英国人の人でも手を焼く言語の障害を日本人の私が越えることは本当に不可能のように思われました。最初は全くチンプンカンプンで、一年間は、学校へ行っては、わからず泣いてばかりの日々でした。大学側にスペシャルサポートをお願いしても、ほとんどが英国人の学生ばかりで、日本人でホメオパシーを勉強しているのは私だけということもあり、先生方もどのようにサポートしていいのかわからなかったのでしょう。全くサポートしてもらえませんでした。それで、やっぱり、私には無理な勉強だったのだ、という悲しい思いで過ごしていました。しかし、私のように苦しんでいた人がたくさんいるだろうし、何より、ホメオパシーが本当に素晴らしいことを心と体で体験したのだから、どうしてもホメオパシーを学んで日本の人々に伝えたいという自分の気持ちは偽ることはできませんでした。気を取り直し、サポートのありそうなホメオパシーの学校に捨て身で面接しに行きました。そのとき、当時のロバート学長から面接を受けたのですが、面白いことを言われました。彼は、私に会うなり「よく来たね。待っていたよ。しかし女だね。そして医者でもないなぁ。でもいいや。ホメオパシーは、極東には絶対必要だから、心して学んで、そして日本へ持って行きなさい!」と言われました。ロバート学長以下、素晴らしい先生方の全面的なサポートに恵まれ、そして敬虔なクリスチャンであるプライベート教師であり、私の親友であるホメオパスのメグ・ポートロのサポートにより、私は無事、三年間の勉強を終えホメオパシーの大学を卒業することができました。そして更に二年間の大学院へ進学しました。大学院では、アポロ計画に参加した天才科学者、ウィリアム・ネルソン博士に生理学・解剖学・病理学とホメオパシー版のエネルギー療法について徹底的に学びました。卒業後、英国政府が定める国家職業基準を遵守する、英国ホメオパシー医学協会(HMA)のホメオパス認定試験を受験し、合格し、晴れてHMA認定認定ホメオパスとなることができました。
私は、患者さんを通して自分を再度見つめ直しています。そして、患者さんによって、私も癒されています。ホメオパシーで病気を治してもらっただけでなく、ホメオパスというありがたい仕事まで頂き、心から感謝をしています。このホメオパシー療法をロバート学長と約束通り日本の地に根付かせて行くことが、私の天職だと思って止みません。
- JPHMA [日本ホメオパシー医学協会] 名誉会長
- JPHMA認定カレッジ・オブ・ホリスティック・ホメオパシー(CHhom) 名誉学長
- 一般財団法人 日本ホメオパシー財団(JPHF) 理事長
- ARH [英国認定ホメオパス連合] 認定ホメオパス
- Hon.Dr.Hom [ホメオパシー名誉博士(Pioneer University)]
- Ph.D.Hom [ホメオパシー博士(International Mathematical Union )]
- 座右の銘:万物生命、その存在自体に感謝し、命そのものを生きられんことを!
ホメオパシーを1996年から日本に本格導入。日本におけるホメオパシー教育の基盤を作り上げた日本におけるホメオパシーの第一人者。従来のホメオパシーに、インナーチャイルド癒し・霊性学・食養生などの統合医療的アプローチを加えた体・心・魂を三位一体で治癒に導くZENホメオパシーを確立した。