高熱により潰瘍性大腸炎が改善|20代|女性

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CHhom卒業式答辞

私がホメオパシーに出会ったのは、今から九年前のことです。

私は潰瘍性大腸炎を患っていて、専門の病院で西洋医学の治療を受けていました。原因不明の難病なので治らない。薬も効くかどうか分からないというのが、現代医学のスタンスでした。だんだんと不信感が増していきました。ステロイドを使わないといけなくなった時点で、自分で病気を治すことを決意しました。

大学時代の親友から、ホメオパシーという療法があることを聞きました。そして次の日に行った病院の先生から、日本にホメオパシーを持ってきた由井寅子さんは、あなたと同じ潰瘍性大腸炎で、ホメオパシーで治ったんだよ」と『 ホメオパシーin Japan 』の本を、私に見せてくれました。その病院の先生から資料を頂いた事がご縁で、由井先生の相談会を受け始めました。

ところが、私はすぐには治りませんでした。毎日トイレに行っては下血を見て、悲しくなりました。寝たきりになり、トイレに行くにも、ほふく前進か両手に杖を突かないと歩けない、家の中の移動に何時間もかけていました。何も食べられず、寝たきりで動けず、体中が痛くなり、寝返りをうつのも大変、トイレに行くのも大変、そういう状況が数カ月続きました。

そして、自分でがんばることができなくなった時、それまでの執着を手離し、大いなるものに全てを委ねました。「私は今までこの病気を治そうとできる限りのことをやってきましたが、できませんでした。 がんばることをやめます。死んでしまってもかまいません。すべてをあなたに委ねます。死を受け入れます。でも、もし生かしてもらえるとしたら、私は自分を大切に、尊重し、ほんとに自分のしたいことに焦点を当てて生きていきます」と、大いなるものと対話をしました。そして、自分自身と真正面から向き合い、真剣に内観し続けたのです。

すると、微熱しか出せなかった体が、なんと高熱を出し、その次の週にも高熱を出し、少しずつ体調が回復していったのです。どうにか動けるようになり、杖をついて由井先生の相談会に行くことができました。「先生、高熱が出ました!」と言うと、先生は「そうか出たか! おめでとう!」と拍手してくださいました。やっとここまで来れた……。

私の心の支えは、ホメオパシーと由井先生の存在でした。それからだんだん体調は回復していきました。何年も数種類の物しか食べられなかったのを、一つひとつ克服し、今日はお茶が飲めるようになった。今日は生野菜が食べられた。今日はお天気だから10分だけ外に行ってみたい、体中がリウマチのように歩くだけでも痛かったのでほんとに少しずつ。電車に乗れるようになり、人中にも少しずつ慣れていき、「生まれたばかりの赤ちゃんてこんな感じなのかな」と、一つひとつ喜びと共にできる事が増えていきました。そして、どんな小さなことでも感動して「ありがたいな」と涙が出てきます。

気になると共に、どうしてもホメオパシーの学校に通いたくなりました。まずは仕事を始めてお金を貯め、今までの貯金と、足りない分は親に相談し、どうにか通えるようになりました。 その時は有難くて、有難くて泣き腫らしました。「私はここに来たかったんだ。学校に通いたかったんだ。」ここまでの道のりはすごく大変だったけれど、私の「ホメオパシーに対する想い」「勉強できる事への感謝の気持ち」「どうしてもホメオパスになりたい」と、強い思いを認識しました。

学校に通い始めた頃は体調も万全ではなく、やっとの思いでしたが喜びの方が強く、どうにか四年間通うことができました。学校生活はほんとに楽しかったです。「何がいいとか悪いとかはない。ありのままで素晴らしい。生を受けているだけで完全なのだから、何も恐れることはない。等身大の自分でいる。こだわらない。」このように思うようになって、とても生きやすくなりました。

私たち三期生は、どんな話でもすることができて、気さくで楽しい方ばかり。社会一般の「この世的価値観」ではなく、「霊的価値観」で話すことができるので、私にとって、とても有難い存在です。そして私たちは、この四年間でさまざまな変化を遂げ、ほんとの自分を生きようとしています。同じ学び舎 ― CHhomで共に過ごした四年間を宝物とし、それぞれの我が道を進んでまいります。ほんとにありがとうございました。

私の心の奥にはホメオパシーで治るという、なぜだか分からない強い思いの光が灯っていました。これは私個人の人生の道へと導いてくれる体験であり、誰しもに当てはまるものではないと思っております。自分がどうすべきかということは、自分自身に向き合い、内観し、決めていかれることを願います。

紀野陽子ホメオパスCHhom卒業式答辞
紀野陽子ホメオパス
CHhom卒業式
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